特集

小学校理科における「研究と修養」②

「研究と修養」、「修養」

「研究」と「修養」

 前回(小学校理科における「研究と修養」①)は、「研究と修養」と「研修」を同じものとして扱いました。しかし、条文において書き分けられていることからも全く同じものとしてみることは適当ではないでしょう。ここでは、「研究」と「修養」について考えてみます。植草学園大学名誉教授の野口芳宏氏は、「研究と修養」について以下のように書いています。

 「研究と修養」と書かれているのに、教育界は敗戦この方、昔も、今も全く「修養」という言葉を口にも耳にもしていない。これこそが、教育界最大の、敗戦後の汚点、過誤、だと私は考えている。「研究」という名で行われている教員の営みは一切合財、全てが「子供改善」である。教師の関心の全てが「子供の学力」「子供の読書」「子供の道徳性」「子供の体力」なのだ。そのように導く「自己」「自身」の「学力」「徳性」「読書」「生活習慣」などについての自省、内省、向上、錬磨が話題になったことは殆どない。教師の「自己改善」は関心の外であり、「棚上げ」状態のままなのだ。
 「教育は人である」という格言は、「子供改善」という「他者改善」のその前に、まずは「自己改善」に努め、励まねばならないのだ、というのがその真義であろう。

「今どき教育事情・腑に落ちないあれこれ(その3) ─校内研究計画の功罪(下)─【野口芳宏「本音・実感の教育不易論」第62回】」https://kyoiku.sho.jp/274743/

 野口氏の書いた批判そのものには全般的に賛成です。ただ、教師の関心が「子供の学力」にあるというのは、年間50回程度研究授業を拝見している実感とは違います。しかし、それはひとまずおいて、ここでは「研究」と「修養」について、違う角度から考えてみたいと思います。

 私の信頼する辞書である日本国語大辞典(日国)第2版において、「研究」は「物事を深く考えたり、詳しく調べたりして、真理、理論、事実などを明らかにすること。研鑽。」、「修養」は「学問をおさめ、徳性をやしない、より高い人格形成に努めること。精神を練磨し、品性をやしない、人格を高めること。」とあります。両者は重なるところもありますが、研究は知、修養は心を主な対象にしていると整理するとよいと考えています。

一人で「修養」、他者と「修養」

 研究については、次回以降に書かせてもらおうと思いますので、ここでは修養について考えたいと思います。理科専科の先生は、あるいは理科に興味がある先生は、きっと学校に理科を相談できる人が少なく(あるいは皆無で)、お一人で悩んでいらっしゃることでしょう。もちろん、一人でいること、孤独は修養に大切だと思います。物事を一人で考えてきた経験が、自分の考えや判断の自信を支えていると実感します。しかし、大学の恩師が「子曰、学而不思則罔、思而不学則殆」をことあるごとに私に話したのを思い出します。意味は、「教わるだけで自ら考えないのはよくない、自ら考えるだけで教わらないのは危険である」というところでしょうか。確かに、私が少しは成長できたと思えるのは、孤独の時間のほかに、子どもや後輩、同僚、先輩など周りの人から教わることができたからです。

 特に、憧れの人、批判し合える人がいるかが大切なのだと強く思います。私は幸いにして、憧れの人に何人も出会うことができました。運に恵まれたことは否定できませんが、それでも積極的につながりを求めていたことも功を奏したと思います。憧れの人がいるとよいことに議論の余地はないと思いますが、「批判し合える人」が大切というのは「Z世代」には煙たがれるかもしれません。でも、大人になってから成長するには批判し合うというのは、とても大切だと思います。批判し合うとはいっても、言葉で罵り合うのではなく、お互い競い合うというのも批判し合うことにいれてよいと思います。

理科専科.comで仲間づくり

 「知」の面の成長は、対話型AIの協力等でかなりの程度、一人でもすすめられるかもしれません。しかし、AIには「心」の面の成長はまだ難しいと思います。いや、本質的に難しいと思いますし、そこは、AIに任せるべきでないと思いますが、AIの発展には限りがなく、いつかはAIに明け渡すべきなのかもしれません…。ただ、現在、人のありがたさ、人に批判してもらう大切さは失われていないでしょう。さらにいえば、今後はAIよりも憧れられる人、頼りになる人になろうと努力していくべきなのだと思います。この理科専科.comをきっかけに、孤独のみの日常を脱し、理科の仲間づくりを始めませんか。

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